あの頃の甘酸っぱい思い出をもう一度
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序章:ちいさな冒険 その6

 座り込むと同時にそれまでは気にならなかった寒さが一気に襲ってきます。
「さむい……」
 いくら厚いコートを羽織っているとはいえどもさすがに寒く、手は温度が感じられないぐらいに冷え切っていました。
 体を温めるために焚き火を作ると先ほどの惨状を繰り返してしまう――さすがに五歳でもそれぐらいはわかるようです。
 アリーチェは体を小さく丸め、手に息をふきかけてこすり合わせながら考えます。
 ぴよぷーが頼りにならないとすると、アリーチェに残された手段は大人しく霧が晴れるかおじいさんが助けに来るのを待つかの二択だけ。
 霧が晴れたところで、すっかり迷ってしまっている現状では元の道へと戻れる保障はありません。
 となると、アリーチェがとるべき行動は、おじいさんが助けに来るまでじっとここで待つこと。
 けれどおじいさんに助けてもらうと、このおつかいは失敗に終わってしまいます。
 次の試験がいつになるかはわかりませんが、冒険の知恵とやらを教えてもらえる日が、つまりは世界中を自由に冒険できる日が遠ざかってしまうことだけは確実です。
「やだやだ、それだけは……」
 それだけは何としても回避しなければなりません。
 とにかく、この場から離れることにしました。一箇所に留まってぐずぐずしていては、おじいさんが迎えに来てしまうかもしれないからです。
 とはいえ、闇雲に歩き回ってこれ以上森の奥深くに迷い込み、危険な目に遭うのも御免です。
 アリーチェは人差し指を唇に当て、考えにふけります。
「あーーっ!」
 突然、大きな声を上げました。
 青と緑のチョークを右手に持ち、こくばんに何かを描いていきます。
「”ライズ”!」
 チョークをポケットにしまって甲高い声で呪文を唱えた瞬間、ざあっと風が吹きはじめました。アリーチェの髪が激しくなびき、木々の枝葉が強くたわむほどの強い風です。
 強風に流され、あっという間に霧が薄くなっていきます。一分も経たないうちに、森は普段通りの姿を取り戻しました。
「なんだ、こんなにかんたんだったのか……」
 そう、霧が出始めてすぐに思いついて風を起こしていれば、ここまで迷うこともなかったのです。
 最初に道を間違えた時、パニックになってしまい周りが見えなくなったアリーチェのミスでした。
「もっとはやくやっておけばよかった……」
 後悔先に立たず。今更起きてしまったことを悔いても仕方ありません。
 それよりも大事なこと。森を抜ける、もしくは元の道へと戻る根本的な解決策が見つかったわけではないのです。
 これで進みやすくはなりましたが、辺りの景色には見覚えがなく、赤い実や黄色い実の木も当たり前のように見当たりません。
 とにかく、これ以上迷子にならないようにする――それには、歩いてきた道をわかりやすくマーキングする必要があります。
 アリーチェは赤いチョークを取り出し、中心に穴の開いた、平べったく丸いものを描いて呪文を唱えます。
 絵と想像力によって生み出されたそれは、赤いビニールテープ。
 さっそく拾い上げ、すぐ隣の木の幹にぐるりと一周巻きつけます。
 巻きつけ終えると歩き出し、十歩歩くごとに近くの木に最初と同じようにテープを巻きつけながら進みます。
 黙々と一人で行軍を続けていると、鳥を追いかけるのにもいい加減飽きたのか、ぴよぷーが大人しく後ろにつき従うようになりました。
 気が向いただけならいいのですが、もしかしたらおじいさんが家を出て自分を追って来ているのかもしれません。アリーチェは足を速めます。
「ぐるる……」
 一体何本目になるかもわかりませんが、木の幹にテープを巻いていると何やら獣の鳴き声のようなものが聞こえました。
「ぴよぷー、何か言った?」
「ぷぷー」
 アリーチェの質問に、ぴよぷーは体を左右に振って否定します。
「きのせいかな?」
 首を傾げるアリーチェの耳に、再び声が届きます。
「ぐるるるる……」
 今度はさっきよりも随分とはっきり聞こえました。どうやら幻聴ではなさそうです。
 ぴよぷーの声でないとすると、黒の森に生息する狼でしょうか。
 肉食獣にとってこの季節は獲物になる生き物が少なく、殺気立っているため非常に危険です。
「に、にげたいけどにげられない……」
 引き返せばおじいさんと鉢合わせになる可能性がますます高くなり、かといってテープを巻きながら悠長に進んでいては、飢えた狼に簡単に追いつかれてしまいます。
 進めば危険が、退けば失意が待っています。
 アリーチェが頭を抱えて悩んでいると、みたび声が聞こえました。
「ぐる……ぐるる……」
「あれ?」
 アリーチェが声の異変に気づきます。
 狼らしき声は近づきも遠ざかりもせず、おまけになんだかとても弱々しいのです。
「どうしたんだろ?」
「ぐる……」
 先ほどよりも更に弱々しい声がして、以降ぴたりと止んでしまいました。
 十秒待っても、二十秒待っても声は聞こえません。
「しにかけてるのかな……」
 アリーチェはの脳裏を不安が横切ります。
 いくら危険な獣だからといって、弱っているのを放置していくのもなんだか可哀想です。
「とおくからみるだけなら……だいじょうぶだよね?」
 ぴよぷーに尋ねるでもなく呟くと、そろり、そろりと獣の声がした方へと近づきます。
 最後に背の高いリロ草を掻き分けると、途端に強烈な錆びた鉄のような血の臭いが鼻をつきました。
 驚きながらもアリーチェが自身から二メートルほど離れた木の足元に目をやると。そこには横たわる黒い狼の姿がありました。
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