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序章:ちいさな冒険 その5

 一方その頃、工房では。
 大きな釜がうなり声をあげてこくばんをじっくりと焼き上げている傍らで、おじいさんが日課の筋トレのメニューをこなしている最中でした。滝のような汗を全身から滴らせながら背中に重りを三つも乗せて片指立て伏せをしています。
 おじいさんの目は真剣そのもので、その視線は壁にかけられたこくばんに注がれていました。
 こくばんには、降りしきる雨が炎を鎮める様が……つまりアリーチェの起こした放火未遂事件が鮮明に映っています。
 ぴよぷーの目を介して映し出されるその光景は、上空から炎を映したかと思うと急降下してアリーチェの顔のアップになったり、かと思うと激しく上下に動きながら急激に現場を背に遠ざかり、大雨を避けるようにして遠くから全景を映す、といった非常に忙しない映像です。
 やがて炎は雨に負けて完全に消え去り、ぺたりと雪上に座り込むアリーチェの背中が映ります。
 おじいさんは背中の重りを下ろして指立て伏せを止め、どっかと腰を下ろします。逞しい二の腕で額の汗を拭くと、それはそれは、とても重苦しいため息をつきました。
「森で火を使うとは……。
 炎の延焼が想像できて、どうしてそれ以外の方法でどうにかしようという発想が出てこないんだ……もしかしてわしの話のせいか?」
 おじいさんの額に今度は嫌な汗がどっと吹き出ました。
 確か、アリーチェに豪快な炎で燃やし尽くした話をした記憶があります。その時は周りにまで延焼するような炎にはしませんでしたが、雨で鎮火したところまではそっくりです。
「わしのせいか……おっと、もうこんな時間」
 自らの身長ほどもある大きな置時計を見ておじいさんは立ち上がります。
 釜に近づき扉を開けると、薪の爆ぜる音がいっそう大きくなり、高温の熱風がおじいさんを襲います。
 おじいさんはこくばんの焼け具合を確認し、両腕ではさみを使って一つ一つ釜から取り出しはじめました。


「ぴよぷー、おいで」
 火が消えて数分が経った頃、アリーチェはようやく落ち着きを取り戻しました。
 立ち込めていた煙はいつの間にか風で流されたようですが、焦げ臭さだけは未だしつこく辺りに充満しています。
 アリーチェはぴよぷーの鞄から地図を取り出し、この先の道を確認します。
「ええっと……リロ草のはえるみちをとおって、川をわたって、あかいみのなる木ときいろいみのなる木のあいだをぬけて、あとはそのままけものみちをずーっとまっすぐ。リロ草がけものみちの右と左にはえはじめたらでぐちはすぐそこ、ね。よし!」
 地図を鞄にしまい、立ち上がってお尻の雪をぱたぱたと手で落とします。
 視線を前にすると、邪魔な倒木はすっかり炭になっていました。アリーチェが手で軽く触れると、それだけでボロボロと崩れてしまいます。
 適当に手や足で崩しつつ進むと、簡単に向こう側までたどり着くことができました。
「リロ草、リロ草は……あった!」
 きょろきょろと辺りを見渡すと、熱ですっかり雪が溶けてむき出しになった草むらの中、他の草よりも随分と背が高く黒っぽい色のリロ草がすぐに見つかりました。
 そのまま奥へと目をやると、積もった雪からリロ草が点々と顔を出しているのがわかります。
「リロ草のはえるみちをとおる、と……」
 アリーチェは手やコートについた黒い煤を払うと、リロ草に従って雪の中を先へと進みはじめました。
 その後ろを、時折現れる野性の鳥を威嚇したり追い回したりしながらぴよぷーがついて行きます。
 火災現場を後にして、時計の長い針がぐるりと一周する頃。アリーチェとぴよぷーは、おじいさんの地図に描かれていた川らしき場所にようやくたどり着きました。
 ずっと歩き通しだったため、すっかりくたくたになってしまったのでしょう。アリーチェはとにかく休憩しようと、手近な切り株に腰を下ろします。ぴよぷーはその横の木の高い枝にとまりました。
「はあぁーつかれた」
 アリーチェはぐったりとした様子で膝に顔を埋めます。
「そういえばおなかすいたなあ、なんかもってたっけ……」
 ごそごそとポケットを探ると、小石程度の大きさのキャンディが出てきました。包み紙を解いて口の中に放り込むと、ほんのり苺味の甘い味が広がります。
 アリーチェはにこにこと飴を舐めながら、表面のところどころに薄く氷の張る川の様子を眺めてみました。
 川面を流れる枯葉の速度は遅く、水が綺麗に澄み切っているため浅い川底が見て取れます。これならアリーチェでも楽に渡ることができそうです。
 そして川の向こうには、大きな木の陰に隠れてしっかりとは見えませんが、黒い枝葉の隙間から赤いものがちらついています。おそらく地図に載っていた”赤い実のなる木”でしょう。
「よしっ!」
 アリーチェは小さくなったキャンディを噛み砕いて飲み込むと、切り株から勢いよく立ち上がりました。
「ぴよぷー!」
 大人しく休憩していたぴよぷーを呼び寄せ、念のためそろりと川に右足を下ろします。すぐに川底の砂を踏みしめる音がして、それ以上アリーチェの足は水に沈みません。水位は足首よりも少し上ぐらいで、ブーツを履きかえる必要もなさそうです。
 そうとわかるとアリーチェは途端に走り出し、ぱしゃぱしゃと水しぶきをあげてさっさと川を渡り終えると赤い実の木へと向かいます。
 大きな木を迂回すると、左手に枝から赤い実をたくさんぶら下げた木、その陰に隠れるようにして黄色い実をぶら下げた木が生えていました。
 二つの木の間に立つと、その間からは他よりも進みやすそうな、草が踏み荒らされたような獣道が奥へと続いています。ですが道の奥は薄暗く、木立の途切れは見当たりません。森を抜けるのにはまだまだ時間がかかりそうです。
「ほんとうにこのみちなのかなぁ」
 目立つ印は二本の木だけ。これ以降は地図にも一切道の説明が書かれておらず、アリーチェの不安を掻き立てます。
 辺りを見渡してみましたが、獣道と呼べるようなものはこの道だけしかなく、覚悟を決めて進むしかなさそうです。
「もうすこしわかりやすいみちだとよかったのに……」
 おじいさんへの不満を漏らしながら、アリーチェはそろそろと歩き出しました。
「ん?」
 辺りがなんだか白っぽいような気がします。霧が出てきたのでしょうか。
「ぴー!ぴー!」
 ぴよぷーの威嚇する鳴き声に釣られ、空を見上げました。
 霧のせいで空どころか木のてっぺんすら見えません。霧はさっきよりも幾分濃くなっています。
「あ、あれ?」
 アリーチェが異変に気づき、足元を確認します。足元は獣道とは呼べそうもない雑草だらけの草むらでした。
 辺りを飛び回るぴよぷーに気を取られ、いつの間にか獣道から外れていたのでしょう。踵を返して戻ろうとします。
「うー、みえない……」
 ですが霧は一秒ごとにますます濃くなっていくばかり。アリーチェの視界を容赦なく奪います。
 手を伸ばしたその指先が見えないほどの霧。十分も経つ頃には、アリーチェはすっかり迷子になってしまいました。
 さすがにこれ以上歩くと危ないということはアリーチェにもわかったのか、上空を仰いでぴよぷーに頼んでみます。
「元のばしょわかる?
 もしわかるならつれていってほしいんだけど……おねがい」
「ぴぃ」
 両手を合わせ真摯な態度で頼みますが、ぴよぷーの返事には全くやる気がありません。それどころかアリーチェには見えないどこぞの鳥を追い掛け回しにいってしまいました。
「ひ、ひどい」
 ぴよぷーのあまりな態度に蓄積していた疲れがどっと押し寄せ、アリーチェはがっくりとその場に座り込みました。
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